義母

中高一貫お嬢様学校出身で、総合商社に勤め、(本人いわく)独身
時代は、銀座で様々な男性著名人から声をかけられた義母。

ブランドもので身を包み、お洒落で優雅で、良くも悪くもお嬢様感に
満ち溢れ、「ごめんあそばせ」と普通に言い、忖度が不得手だったあまり、
ストレートに感情を表現し、そこここで思わぬ摩擦を生んだ義母。

僕も何度かぶつかりましたww

国指定難病を患い、長く入退院を繰り返す闘病生活を続けながらも気丈に
振る舞い、「明治の女性は凄かった」が口癖だった義母。

今年の夏以降、病状が悪化し、一人暮らしでの生活が困難になったため、
狭い我が家の一室をどうにかこうにか整理し、要介護認定を受け、介護
ベットや車いす、風呂やトイレの補助器具、訪問医療用の点滴スタンド
なんかを借りて、住み慣れた鎌倉を離れて我が家での同居生活が始まり
ました。

3日に一度程度訪問医療を受診し、うるさくも可愛い孫に辟易したり
目尻を下げたりしながら、厳しくも慈しみ深く接する様子を見ながら、
でも確実に徐々に体力が無くなっていく様を、付かず離れず一か月余の
間、見守りました。

10月の下旬に容体が急変し、何度も入退院を繰り返した病院に戻り、
医師から余命宣告を受けた後も、繰り返し襲ってくる痛みに耐えながら、
孫が見舞いに来るのを楽しみにしていましたが、先日、家族に見守られ
ながら静かに息をひきとりました。

鎌倉の家を売却することにしたり、家財の処分を含めた手続を進めたり、
公証人による遺言作成等、義母でなかったら中々進め辛かったであろう
ことも、「あなたたちにいらぬ心配や迷惑をかけるのだけはいや」と、
躊躇なく受入れ、延命措置は断固として拒んだ義母。

亡くなった直後、子供たちが泣きながら覆いかぶさるように義母に
抱きつき、髪をなで、徐々に冷たくなっていく手を握る様子を見ながら、
常に「貫く」姿勢を見せてくれたことは、特に子供たちがこれから生き
ていく上で、とても大きな財産をもらったと思いました。