今日われ生きてあり その2

読み返した。敗戦後彼らがその死を痛まれるどころか、異常行動をとった帝国軍国主義の極みのようなひどい扱いだったこと、その遺族が同様なひどい処遇を受けたことを知った。
当時の一般の人にとって多分「大日本帝国」ってフレーズは今の人間にとって「テロを実行した某狂気的宗教」(とは比べ物にならんとは承知の上だけど)と同じくらい無条件に忌まわしく思わなくてはならない存在だったんだろう。
で、特攻隊というのはその象徴のようなものであり、その様な行動を自ら選んで実行した人は当然理解不可能な狂気の集団だったんだろう。
当然米軍からするともっとも憎むべき集団であったがために、その意思を感じた人々は自然発生的に特攻隊の存在を疎ましく思ったのも当然かも知れない。
僕もそう思っていた。暴走族の特攻服しかり、アメリカ人の「カミカゼ」に対する思いしかり。ステレオタイプでもある「大日本帝国万歳!」と叫んで突っ込む狂気の集団でしかなかった。多分にTVの悪影響があったと思う。
行為そのものは本当に狂気としか言いようがないし、そういった戦略を考え付いた当時の軍上層部の当事者意識の無さにはあきれ果てるというか、今更ながらに怒りを感じるんだけど、それぞれの事情はともかく、そうした戦略というか究極の選択に応じた彼らを思うに、「何故なんだろう」という思いはずっとあった。
第二次大戦が何故起こったかというのは抜きにして、祖国、家族、愛する人に対して今まさに敵国からの攻撃が激化してきた時、自分にできることが自分の命を明らかに失う攻撃である!!、という選択・・・
ふと思い出しのが「アルマゲドン」のブルース・ウィルス
小惑星を爆破するためにスペースシャトルで赴くも、脱出不可能と知り、一人残って死ぬのを承知で小惑星爆破のスイッチを押す。
死ぬ直前に娘をメインにした走馬灯が流れ、押すスイッチ。
あの映画の究極のシーンだけど、もしかしたら60年前の特攻隊の彼らと似ているかも知れないと。
ただし決定的に違うこと。
結果的に死ぬことになったブルースとは違い、死ぬことを大前提にしたミッションを選択した彼ら。
作戦の結果が地球を救う、と理解していたブルースとは違い、作戦の結果が敵国の侵攻を「若干」遅らせるに過ぎない、と理解していた彼ら。
結果として英雄的に認知されたブルースとは違い、戦後、狂気の集団として弾劾された彼ら。
特攻という行為とか、戦術とか、戦果とか、犠牲とか、そんな事は敢えて放っておいて、彼らの「思い」ってもうちょっと尊重というか見直せないだろうか。
新婚旅行でアテネに行った際に、中心部のしかもギリシャの国会議事堂の横に「戦士の墓」があり、僕はその墓の衛兵の交代式の面白さに引かれてかみさんを誘って見に行ったんだけど、その墓の持つ意味、つまり古代ギリシャから現在まで、ギリシャを守るために死んだ全ての兵を祀るという意味を知り、日本の靖国神社の存在との随分な乖離を感じた。
アテネのそれは、老若男女が抵抗無く日常的に献花でき、偲ぶことができるのに対し・・・
アテネではすべからく外国人が敬意を払っているのに対し・・
日本においても古くから(僕が学んだ内最も古いのは元寇)日本を守るべく戦って死んだ戦士は大勢いるわけで、彼らを祀る事に反対する人は多分いないわけで、ただしそれが靖国神社とは思わないわけで。
話が中心をそれたけど、特攻隊の彼らは「自分が今すべきこと」を、当時の選択肢の中で究極に突き詰めた人々だと思う。それは元寇の時代から日本の戦士には、というか世界中の戦士が選択してきたことだと思う。
命を懸けた思いと行動、その結果に対して国家が行動を起こすのを誰も批判しないと思うんだけど・・・
さて、そんな思いを持つ僕が今すべきこと。
それは幸いにして決して敵に対する行為でもなく、防衛のためでもないけれど、今自分が享受している幸福は自分が享受するに値する、さらに自分の子孫が享受するに値する、と言える行動を自ら規範していきたいと思う。
それが人間としてストイックに生きることなのかも知れない。
ただ何となく現在の価値観の範疇での成功、その究極のシンボルはホリエモンなのかもしれないけど、そういった成功への価値観は幸いにして?薄弱になったかも。
僕は一時代を築く人間ではなく、一家族を守る人間でありたいと思う。
34歳にして今の自分の立ち位置に迷ってきた自分だけど、この思いだけは家族に真剣に伝えられるようになったと思う。
まずは明後日帰ってくるかみさんに思いを伝えたい。