1歳と28〜32日 遺族の仕事

yasbay2006-09-25

写真は、由比ガ浜でサーファーの良し悪しを厳しい目で見極めるデビ。
今日からようやく出社できた。
会社の規定で、配偶者の父母の忌引として3日間休めたのが助かった。
亡くなった後、かみさんとお義母さんも加わってお義父さんにお気に入りの服を
着せ、葬儀屋に電話して遺体を迎えに来てもらった。
お義母さんがお義父さんと一緒に乗り、僕とかみさんとデビ、お義兄ちゃんがも
う一台で葬儀屋に移動した。
お義母さんの希望で、葬儀屋へ向かう途中、自宅の前で一度停車してもらえたら
しい。
昔と違い自宅での通夜は困難なため、せめて自宅の前に停めてもらえたのが何よ
りだったと思う。
葬儀屋との打ち合わせは本当に段取り良く終わった。
幸いにも僕は葬儀に関わった経験が無かったし、葬儀屋とのトラブルみたいな事
も良く耳にしていたので、斜に構えて打ち合わせに参加したんだけど、段取り良
く、遺族の気持ちもきちんと汲んでくれ、余計なものを勧めないその姿勢に本当
に安心して任せることができた。
この日は、通夜と告別式の日時、ホールの大きさ、おときのお店を決めた。
おときの際に、繰上げ初七日を行うとの事。
何のことかと思い聞いたら、本来は亡くなった7日目に行う初七日の法事を、火葬
の後のおときの際に、お店の中で繰り上げて行うというものらしい。
いかにも日本らしいなぁと少しおかしみを感じた。
葬儀屋との打ち合わせが終わったのが21時過ぎで、僕はそこから礼服やデビの日
用品、かみさんのパールのネックレスや数珠等を取りに千葉に帰った。
千葉の自宅に着いたのが23時過ぎ。
礼服やら何やらをバッグに詰め、冷蔵庫の生もので消費期限の近いものや傷んだ
野菜を捨て、植木に水をやり、翌日が新聞回収日だったので溜まりに溜まった新
聞を紐でしばり、洗濯して部屋の中に干して、部屋を掃除して床についたのが3時
過ぎ。
翌6時に起床して準備し、9時からの鎌倉の葬儀屋との打ち合わせのために7時過ぎ
に電車に乗り、鎌倉へ。
正直しんどかった。
9時からの打ち合わせでは、霊柩車の種類、会葬お礼の印刷数から、写真の額縁、
祭壇の飾りに至るあらゆる事柄を決めていった。
11時頃に打ち合わせが終わり、かみさんとデビ、お義母さんは細かい用事のため
買い物に、僕はお義兄ちゃんに付き合って礼服を買いに出た。
平成の寅さん状態のお義兄さんは礼服を持たず、お金もあまり無いと言うのでコ
ナカに行った。
礼服ですら本当にピンきりだったので、かなり安めのものをチョイス。
すそ上げしてもらっている間に、お義兄ちゃんお勧めの家系ラーメン「一六家」
に昼ご飯食べに行った。
家系は本当に久しぶりだったので楽しみだったんだけど、正直美味しいとは思え
なかった。
多分僕が年取ったせいなんだろうけど、とにかくコッテリし過ぎと言うかしつこ
くて、胸焼けしてしまった。
礼服とって家に帰り、ちょっと仮眠していたら、デビの体調が悪化していた・・

いつもの自家中毒。大量に吐き、ぐったりし、熱がある。
「ここでなるか・・」と正直グッタリしてしまった。
うちの実家の両親に早めに来てもらい、デビを見てもらえることになったのは本
当にありがたかった。
このため、両親は通夜の準備中の斎場に行ってもらい、お義父さんとの別れを御
願いした。
到着した両親は、バッグに私服を持ってきていた!鼻からデビを家で面倒見るつ
もりだったとの事。何と言う心配り。涙が出そうになった。
通夜にはたくさんの人が来てくれたけど、なかでも僕とかみさんの共通の友人の
何とたくさん来てくれた事か。
20人は下らなかった。本当にありがたい。10代の頃からの付き合いなので、みん
なお義父さんにも会った事があるし、中には酒を飲んだ奴もいる。気持ちのある
弔問に、かみさんも涙が止まらない様子だった。
某大学体育会某部に所属していたお義父さんの友人も多数見えた。
現役の学生が二人、部の旗を掲げに来てくれていた。
祭壇横に飾ってもらった。
しめやかに通夜は執り行われ、滞りなく終了した。
少し早めにかみさんが帰宅し、デビの様子を見に行った。
両親は、僕やお義母さんの帰宅の前に豊洲に帰っていった。
顔を合わせるとお義母さんが色々気を使うだろうから、との心配りだったそうだ
。いよいよ頭が下がる。
デビは絶不調で、その晩かかみさんも僕も殆ど寝れない状態だった。
翌日は告別式。
また両親がデビを見に来てくれた。
今度は最初から私服で。告別式に出席してもらえないのが残念だったけど、なん
にしてもありがたい。
告別式にも友人が多数来てくれ、粛々と執り行われた。
それまで僕は不思議なほど涙が出なかった。
亡くなった際も、その後の一連の式の中でも。
頭は常に次の事を考え、残された3人のフォローに徹した。
親族とのやり取りの中で、笑顔さえ見せていた僕を冷たいというか事務的な人間
と思った人がいたと思う。
僕も自分自身を「そういう人間なのかなぁ」と客観的に見ていた。
お棺に蓋をする際、一気に崩れるように嗚咽がこみ上げてきて、どうにも止まら
なくなってしまった。
悲しいとか、寂しいとか、思い出が蘇って来てとかではなく、ただ頭の中が真っ
白のまま、嗚咽が止まらない状態。初めての体験だったと思う。
思わず裏に行き、落ち着くまで一人になる必要があったほど、それは激しかった

冷静になって戻ると、いよいよ出棺。
泣き出す人が多い中、僕は火葬場までの配車割りに奔走し、親族を次々に車に詰
め込んで、お義父さんの大学の友人をワゴンに詰め込んだ。
お義父さんの大腿骨は見事の一言。
火葬場からおときをいただくお店に移動し、繰上げ初七日を執り行い、おとき。
一連の弔事が完了しつつある安堵感から、結構な量のお酒をいただき、親族と語
り合っていたら、大学の友人からお呼びがかかる。
完全に酔いが回った既におじいちゃんになった友人達は、僕を座らせるなり「君
が、あいつの自慢の婿さんか」と言ってきた。
何のことか、多少はにかみながら聞いていると、お義父さんはその友人達と飲む
たびに、僕と釣りにいった話、酒を飲みに行った話を嬉しそうにしていたとの事

「誰々はお前の事何々って言ってたよ」と人づてに聞くのは、良い話にしても悪
くても興味深いものだけど、これはかなり嬉しかった。
と同時に、色々約束していた事が実現できなかったことを思い出し、非常に寂し
い思いにも駆られた。
おじいちゃん達は、大いに僕との酒席を喜んでくれ、また飲もうとも言ってくれ
た。本当に心が温まった。
同じ年の従兄弟の一人から、昔と違って兄弟の少ない世の中になり、有事の時は
兄弟や子供だけを頼るのでは事が回らなくなる事があると思う。今後は従兄弟同
士、連絡を密に取って行こう、との申し出を受けた。まさに望むところ。
おときも終わり、みなさんが三々五々で帰って行き、僕たちを実家に帰った。
程なくして花屋さんが簡単な祭壇を作りにきてくれ、お義父さんの書斎に祭壇が
出来、6月の再入院以来6ヶ月ぶりにお義父さんが帰ってきた。
デビは相変わらず不調。うちの両親も疲れたことと思うけど、それを見せずに早
々に帰っていった。
本当にありがたい。
この夜もデビの不調のため、僕とかみさんの睡眠は断片的。
翌日は完全休養日、と言いたいところだったけど、銀行のお義父さんの口座が一
時的に凍結される可能性があるため、諸手続きの道筋だけはつけたかったので、
各種公共料金の名義変更や、年金、健康保険等の必要書類の取り寄せだけはやっ
ておいた。
その日の遅くにようやくデビが2日ぶりに笑顔を見せ始め、土日は完全復活。
19日にお義父さんが亡くなってから、体調を崩していた間もまともにデビの相手
をしてやってなかったので、物凄い勢いで甘えてきた。
ちょっと置くだけで泣きながらしがみついてくるし、抱っこしてても首にしがみ
ついてる状態。
そんなに寂しかったのか、とかわいそうになったので、とことんベタベタしてあ
げた。僕もベタベタしたかったし(笑)
日曜は本当に久しぶりにかみさん、デビと3人でのんびり鎌倉を散歩した。
天気は最高にさわやかで、人手も凄かった。
裏駅や小町通りを散策し、デビの服を衝動買いし、秋の空を眺めながらメンチカ
ツを食べ。
お義母さん、かみさん、お義兄ちゃんは今週も、お寺さんへのお礼、年金の手続
き等引き続き忙しい1週間になると思うけど、できる事をバックアップしていきた
い。