いじめられていた事 今思うこと

マジで他人事じゃない。
ニュースを見るたびに古傷が痛む。
あの時、あそこで、「あいつら」が僕に言った事、やった事、周りの無機質かつ逃げるような目、孤独感、絶望感を今でもありありと思い出せる。
今、どこかで大人になった「あいつら」と偶然会う事がもしあったら、感情を抑えられずに暴力を振るってしまうかもしれないと思う自分がいる。
もうすぐ35歳になり、かみさんと子供がいて、社会的に自立している今でさえ、そう思う。それ位、やっぱり深くて痛い。いや、痛かった。
今にして思うのは、中学時代が今までの中で一番狭い世界、価値観の中で過ごしていたんだと思う。
小学生の間は、親に守られており、子供であり、自我の目覚めにはまだ遠い。
高校になると、個人の価値観は人に認められるか否かに拠らず多様化し、親の存在を客観的に肯定的に捉え、恋愛に目覚め、友情も意識的に熱くなり、意識しようとしないとに関わらず、高校の先ってものが見えて来て、良い事(恋愛や友情)はずっと続き、嫌な事(受験やいじめ)はいつまでも続くわけじゃないと割り切れるようになる。
その狭間にあって中学時代は、親は何となく守ってくれて甘えたいという対象ではなくなり、密な交流が恥ずかしくなり、ひいてはうざったくなり、そうなると困ったときに頼れなくなる。
自我がしっかりしていればそれでも突っ立ってられるんだけど、同年代が何となく画一的な価値観に覆われて自我を開放できない、合唱コンクールで真面目に歌うのは人の目があって恥ずかしい、嫌で怖いのに煙草を吸う連中との関係を付かず離れずにしておかなければならない、とにかく午前8時半から午後5時までの学校での出来事が全て。
この時間帯に自分の居場所がなくなれば、それはそのままこの世での自分の居場所がなくなるのと同義と考える。
僕もそうだった。
夕飯後、「何か元気ないけどどうしたの?」と心配して聞いてくれた母の言葉が、余計にやり場の無い焦りや不安を招き、逃げるように自分の部屋に篭る。
部屋の電気を暗くして、真剣に、でも半ば非現実的に死を考える。
薄っぺらくバカらしいほどあっけらかんとしたテレビのバラエティ番組と、自分の現状のギャップにことさらに傷つく。
扉の隙間から廊下の明かりが漏れている。
父親が帰ってきて、母から僕の様子を聞き、僕の部屋に来る。
どうしても取り繕うことができないため、急いでテレビを消して「疲れてるから」と言って布団にもぐる。
死に方を考えているうちにいつの間にか寝ている。
今でもありありと思い出せる。
こんな日々が1年以上続いた。
あの時、何か決定的な事、例えば信じていた友人にまで裏切られた、とか先生にまで裏切られた、といった事があったら、僕も・・・
なので、自殺した彼らの気持ちは本当に痛いほど分かる。
分かるから、死なないで欲しいと本当に叫びたいほど思う。
その辛い時期はすぐに終わる。マジで。
「あいつら」もその内自分の人生から消える。本当に意外とあっさりと消える。
その数年後には「あれは辛かったわ、マジで」と、この空の下のどこかに、理解し合え、好きになり、恋愛や友情を深める相手がいて、その人と酒を飲みながら、今されているいじめをネタにできる時期が必ず来る。
素敵な恋人かも知れないし、ガタイの良い友人かも知れないし、尊敬できる格好良い先輩かもしれないし、こっちの話を目をまん丸にして「マジっすか?」と聞く後輩かもしれない。
その場所も、新宿歌舞伎町の居酒屋かも知れないし、一人暮らしの部屋かも知れないし、夜の浜辺かも知れないし、ドライブ中の車の中かもしれない。
そんな事想像もできなかったけど、実際は本当にそう。
もちろん、傷は消えないけど、必ず滅多に傷まない古傷になる。
そしたら、自分の周りにはそういう思いをさせたくないって思いを強く持った、常に味方になってくれる親になる事ができる。
僕はそう思う。
だから、とにかく今を乗り切って欲しい。