5歳279日目と1歳と110日目 新しい生活に向けて

GW前から日記サボってしまった。
何となく時間だけが過ぎ去っていった感じ。
GWは鎌倉のかみさんの実家に帰省してみた。
覚悟はしていたものの、とにもかくにも、どこもかしこも凄い人出。
お義母さんにお願いして、出産以来初めてとなる、かみさんとの二人
だけの外出も、結局人ごみ〜にな〜がされて〜♪って感じで終わって
しまった。
ただ、一つだけリフレッシュできたのが、一人でのボート釣り。
お義父さんが存命のころ、たびたび一緒に言っていた手こぎボートで
の海釣りに、初めて一人で挑戦してみた。
材木座海岸に二つある貸しボート屋に前日に電話して、一応予約をし
ておく。
で、海岸橋から少し材木座方面に行ったところにある釣り具店で餌を
買っておく。
で、釣り具やらぞうきんやらサンダルやらといった翌日の携行品を
チェックする。
で、当日朝5時に起きて、自転車に乗って若宮大路沿いのコンビニで
おにぎりとかお茶を買い込み、海岸橋から少し入って行って、材木座
海岸に出て、貸しボート屋の近くに自転車を止める。
で、6時過ぎに貸しボート屋のお父さんに声をかけ、3000円支払って
ライフジャケットを着込み、波打ち際までボートを押してもらい、
乗り込み、お父さんに波のタイミングを見て押し出してもらう。
で、懸命にオールを漕ぎ、沖を目指す。
ここまで来ると何とも言えない解放感に包まれる。
空や砂浜は、まだ夜明けの紫を残している。
海にはまだウィンドサーフィンやジェットスキーなんかを楽しむ人も
いない。
ボート屋のお父さんに、江の島が全部見えるところまで沖に出ると
良い型が釣れると聞いたので、10分以上懸命に漕ぐ。
江の島が見えた辺りでアンカーを下ろし、仕掛けの準備をする。
そうそう、ボート釣りの目当てはこの時期とても美味しいキス。
少し揺れるボートの上で仕掛けを準備して、餌を付けいざ釣り開始。
少し離れたところに投げて、当たりを見ながら少しずつリールを巻く。
ほどなく、キスの「ブルブル!」と言う心地よくも刺激的な当たりが
手に伝わってくる。
適当に合わせると、白く透明な美しいキスが姿を見せた。
これは結構感動もの。
お義父さんと行った4年ほど前以来のこの感覚。
タオルでキスを持ち、針を外してクーラーボックスの中へ。
ここから、30匹以上を釣る事ができた。
途中、明らかにキスとは違う当たりが数回。
一回はあっと言う間に糸を切られたので、かなりの大物だったんだ
ろうと思う。
一回、ずっとモゾモゾ言ってるので仕掛けを上げてみたら、何と
タコが釣れてしまった。
少し小さいと思ったものの、デビに見せたかったのでクーラーボッ
クスへ。
朝早くから動いたので、10時過ぎにはお腹が空いて、海上でお昼
ご飯をたべた。
この頃から、ジェットスキーのエンジン音がけたたましく鳴り出し
たので情緒は無くなってしまった。
用意した餌が全部無くなってしまったので、お昼前に終了。
懸命に岸に向かってボートを漕ぐ。
行きは良かったけど、帰りは結構コツがいる。
と言うのも、波打ち際でボートの後ろから波をがぶらないために、
帰りはボートの先を沖に向け、自分は岸を向いた状態で浜に乗り
上げなくてはならない。
つまり、オールを器用に操って後ろ向きに進むイメージ。
何とか無事に岸に乗り上げる直前にボート屋のお父さんが引き上
げてくれて、転覆することなく無事上陸。
その後、しばらく海を見ながらボート屋のお父さんと話し込んだ。
どの辺りでどんな魚が釣れるとか、昨日はヒラメを上げた人がいた
とか。
休日の浜辺で地元の人と他愛もない話をする気持ちよさ!
お父さんに、またお願いしますとお別れして自転車で帰宅。
みんな、近所の親戚宅に出かけていたので、シャワーを浴びた後、
ビールを飲みながら釣ってきたキスを捌きはじめた。
お義父さんに習ったキスの背開きは、始めは「忘れているかなぁ」
と怖々だったものの、すぐに思い出し、自分でも驚くほど綺麗に
スムーズに捌く事ができた。
タコはデビに見せてからと思い、そのまま。
で、みんな帰ってきて捌き済みのキスを見て、女性陣は歓喜の声。
そりゃそうだわなと。
旬の釣りたてのキスが30匹以上で、しかも捌いてあるんだから(笑)
晩御飯は僕がキスのフライとか、タコのトマトソースを和えたパス
タとか。
みんな大喜びだった。
かみさんは、お義父さんが亡くなったのでもう鎌倉のキスは食べら
れないと思っていたそうで、感慨深げだった。
デビはタコを見て大喜びだったものの、「なんだかちょっと可愛そう」
と痛いところを突いてきた。
とにもかくにも、素晴らしい休日になった。
後は、幼稚園の遠足に行って見たり、弟家族と動物園に行ったり、
家族でデーキャンプに行ったり。
今年は区民農園外れちゃったので、週末の習慣が変わってしまい、
ちょっと肩の荷が軽い分、つまらんかも。
ベランダでジャガイモとかスナップエンドウ、小松菜、ルッコラ
トマトは育てているものの、育ち方が全然違って弱々しいし、葉の
色も薄い。ま、しゃーないわな。
デビはどんどんお姉ちゃんになってて、次女の世話をしっかりして
くれるし、ご飯をダラダラ食べなくなってきたし、物事への興味の
範囲とか強さが変わってきた。
その分、口答えとか、生意気な口きくことも増えたけど(笑)
幼稚園でも色々な役目を与えられるようになり、イベント時に前で
マイクでしゃべったり、友達の中でデビの歌がいつの間にかできて
たり。
この歌は歌詞の中に「笑顔が最高、デビちゃん♪」みたいなのが
あって、結構親としては嬉しかった。
僕は友達の中で人気者ってわけじゃなかったし、そうした友達を
いつも羨ましいと思っていたので、デビがそうあることが何となく
不思議で嬉しくて羨ましい。
そろそろ、○○君が好きとか言い出すんだろうなぁ(笑)
次女は家族3人の愛情を全身にたっぷりと受けて、天真爛漫に育っ
てると思う。
いかにも日本人顔というか、和風な赤ちゃんなので、出かけると
年配の方からいつも声をかけられる。
どうも年配者の琴線に触れる笑顔をするみたい(笑)
イトーヨーカドーでお小遣いもらいそうになったくらい(笑)
二人とも、朝起きると競うようにソファーで新聞読んでる僕の
膝の上に飛び乗ってくる(次女はよじ登ってくる)。
いつまで「パパ大好き!」と言ってくれるものだろうか。
そろそろ、デビの行く小学校を決めたり、ランドセルを選んだり、
小学校入学の準備を進めなくては。
それと、家。
地震で一次中断していたけど、そろそろ家を探そうかと。
地震前にコンタクト取ってた販売会社が、次々連絡くれるように
なった。
どうも価格が下がりそうな気配濃厚。
地域的にはまだまだ悩んでいて、横浜方面か、中央線方面が今の
ところ有力候補かな。
結構な額の臨時収入が入りそうな気配濃厚なので、買える路線と
か地域が一気に変わってきたのが嬉しいサプライズ。
1馬力なので到底無理だと思っていた価格帯が見えてきた。
やっぱプラウドっていいよなぁとか。
しかも、プラウドシーズンもいけるかも?
今年は新しい生活に向けた色々な準備の年になると思う。
そんな雰囲気に影響されてか、かみさんとの関係もちょっと良い
感じ。
子供達を寝かした後とか・・・(笑)
今年で結婚10年だし、ちょっと気張ってプレゼントしてみようか
なぁ。
そう言えば、先日震災後初めて仙台に出張した。
新幹線の窓からは、郡山あたりから瓦が落ちたり割れたからと
思うけど、屋根にブルーシートを広げている家がとても多く見えた。
仙台駅に着く前には仮設住宅を建てているところも見えた。
だが、仙台駅と中心部は、地震があったとは思えないくらい、被害
も目につかなかったし、人出も多く活気があるようにみえた。
お客さんも既に通常業務に戻っていて、余震の心配は若干残るもの
の、今後1000年は今回のような大地震は来ないっていう逆説的な
割り切りで積極的に進めて行くとの事。頼もしい限り。
再来週にまた仙台に行くので、その際には久々に先方と酒を飲みに
行きたいと思う。

5歳236日目と1歳と67日目 どっちが本当の日常?

先週の土日に弟家族と一緒に福岡の祖母のお見舞いに行ってきた。
祖母は認知症を発症しているので、曾孫であるデビや次女はおろか
僕達の事も認識できないであろうこと、さらに、最近は栄養の摂取
状態も悪いので、殆ど意識がもうろうとしている状態であることは
事前に叔母から聞いていた。
それでも、次女を一目見せたかったし、僕達自身も恐らく最後にな
るであろう祖母との時間を過ごしたかった。
デビと弟の4歳の長女は、羽田空港で会った瞬間から本当の姉妹以上
に打ち解け合い、二日間ずっと手をつないだり遊んだり。
昼前に福岡に到着し、タクシーでうどんの名店「かろのうろん」で
ごぼう天が乗ったうどんをみんなでいただく。
親父からは「かしわのおにぎりも一緒に食べよ」とアドバイスがあ
ったので、それも一緒に。
どれもこれも絶品!
デビはもちろん、次女も冷ますのが間に合わないくらいにうどんを
欲しがり、ゴボウの天ぷらもガツガツと良く食べた。
その後、バスに乗って病院へ。
およそ3年ぶりに合う祖母は、寝たきりの状態で手を握って「yasbay
だよ」と声をかけても薄らと目を開くものの、誰が来て何が起きて
いるのか良く分からない状態だった。
でも、何度か声をかけていたら、手をグッと握り返してくれた。
祖母に僕達が来た事が伝わっていてくれると信じている。
デビと姪っ子は、始めは病室の雰囲気にちょっと驚いていたものの、
やがて、祖母の手を握りながら「ひいばぁば!デビだよ!」と声を
かけるようになり、次女もニコニコしながら祖母の手をピタピタ叩
いていた。
祖母は、子供の声にはかなり敏感に反応し、心なしか顔の表情も和
らいでいたように感じた。
自分の曾孫であると分かっていたかどうかはともかく、小さな子が
見舞いに来てくれた、ってことは伝わっていたんじゃないかなぁ。
1時間ほど病院でお見舞いした後に、ローカル線を乗り継いで予約し
ておいた志賀島国民休暇村に向かった。
3年前に2歳のデビを連れて来た時に泊って、非常に風光明美なロケ
ーションと、ご飯も美味しく何よりリーズナブルなことに感動して
しまったので、今回も多少不便なところだったけど、弟家族と共に
予約してしまった。
ローカル線に乗る前に宿に電話して迎えを頼んでおいた。
ローカル線の終点である「西戸崎」という駅で降り、迎えの車で
いざ志賀島へ。
志賀島は、九州本土と砂洲で陸続きになっている面白い地形で、島
に渡る道路も左右が海が広がっている。
左右の海の色や波の立ち方が全く違うのも面白い。
途中、金印が発見された場所や、元寇の際に無くなった元の兵士の
塚があるところを過ぎて、白砂青松の広がる海のまん前に建つ宿に
到着した。
弟夫婦もその風景に興奮気味。
部屋に落ち着き、さっそく弟とそれぞれの長女を連れて温泉に入り
に行った。
まだ16時頃だったので、風呂に入っている人もまばらで、デビと姪
っ子も大喜びで大きな風呂や露天風呂を楽しんでいた。
その後、ちょっと部屋で休んでから、お待ちかねの夕飯。
旬に入ったばかりという、イカの活け造りを別注文しておいたんだ
けど、これが絶品だった。
体は透き通った状態で、まだ足が時折動くって状態で出てきたんだ
けど、子供達は驚くどころか「美味しい!」を連呼して僕たちの分
まで遠慮なく平らげていた(笑)
天然ものの鯛も絶品。
腹いっぱい食べ、美味しいお酒を飲み、子供達の言動に大笑いし、
しばし地震や色々な事を忘れて家族で楽しく思い出深い時間を過ご
すことができた。
そう、福岡にいる間地震を思い出す事は殆どなかった。
お店も普通だし街の人達の表情も明るい。
宿の前に海ではマリンスポーツに興じる人達がたくさんいて、海も
明るい春の海だった。
夜8時過ぎにはみんな疲れもあって寝てしまった。
翌朝は6時過ぎに起床。
早速デビと風呂に入った。
朝食を食べ、チェックアウトを早めに済ませた後に海でみんなで
遊んだ。
その後、今度は志賀島の渡船乗り場まで送ってもらい、フェリーで
福岡市内に戻った。
福岡港からはタクシーで「元祖長浜ラーメン」へ。
小学校の頃、夏休みで祖父母の家に行くと、土曜の夜に叔父や年上
の従兄弟達が集合してみんなで大宴会だった。
宴会後は広い畳の部屋で、叔父や従兄弟達が相撲大会や腕相撲大会(笑)
ひとしきりみんなで大騒ぎした後に、叔父がタクシーを数台呼び、
みんなで長浜ラーメンを食べに行った。
時間はかなり遅く、小学生の僕達兄弟が外出するにはふさわしくな
かったに違いないんだけど、その時だけは両親も笑って許してくれ、
従兄弟達と一緒に、トンコツの匂いがきつい店内で、ちょっと大人
になった気分で非常に美味いラーメンを食べた記憶がよみがえる。
当時の店は既になく、近くに移転していたものの、東京で食べるト
ンコツラーメンとは明らかに異なる「元祖長浜ラーメン」の独特の
美味しさは健在。
何となくだけど、ソウルで食べたソルロンタンにちょっと通ずると
ころがある気がする。
薄切りの肉が乗っているところも、当時のまま。
デビや次女、姪っ子もひたすらズルズルとラーメンをすすっていた。
その後、近所の公園でデビ達を遊ばせ、アッと言う間に福岡っこ達
と遊びだす、そのボーダーレスな感覚をいわば羨望の眼差しで見つ
めながら、ラーメンで腹いっぱい+とても気持ちの良い陽気にウト
ウトする。
地下鉄に乗り空港に向かい、改札出たすぐのお店で「ふくや」の
明太子を自宅用に買う。
そう、うちは昔から誰が何と言おうと明太子は「ふくや」。
カステラは「福砂屋」(笑)
帰りの飛行機も、心配していた子供達の「耳痛」が無く、それどこ
ろか次女は着陸時の衝撃とか音にも一切目を覚まさず熟睡してくれた。
空港に着き、駐車場に向かうエレベーターに乗ろうとした際に、二基
ある内一基が節電で止まっているのを見て「あ〜そうか」と少し暗然
としたものの、家に帰り着くと日常に帰ってきた安堵感もあったり。
福岡での何も不安なく過ごした時間と、家に帰ってきてからの「いつ
もの感じ」。
どっちが日常的なんだろう・・

5歳232日目と1歳と63日目 それでも日常は回る

東北地方の復興に向けた着実な動きに対して、未だに復旧に向けた
決定打の見えない原発
同僚の家族であり福島原発の運転員の方は、結局他原発からの応援
用のバスに乗って実家に帰り、休暇を過ごしたとのこと。
東電本社〜福島第一原発間だけでなく、各原発からも福島との間に
バスを走らせて、応援用の物資や人員を運んでいるらしい。
僕や、周りの人々からのメッセージを同僚に転送し、同僚から伝え
てもらった。
少しでも、彼や周りの人の励みになれば・・・
僕の日常は、地震前と殆ど変らずに回っている。
確かに納豆が手に入りにくい状況は変わらないけど、それらが無くて
も特に不便はない。
先週はかみさんが娘二人を連れて、鎌倉の実家に帰っていた。
地震後も一人だったお義母さんは、不安な毎日を過ごしたことと思う。
少しでも孫達によって、癒されればと思う。
こうした状況にあっても、僕の仕事は進んでいく。
年度末の処理とか、新規ビジネス検討に向けたフィールド調査とか。
今は、被災者の復興に向けた取組みをサポートする仕組みを検討して
いる。
着の身着のままで家を出ざるを得なかった人達に、IT企業ができる事
は何か。
短期的な支援ではなく、就業や教育、住宅や医療といった生活の基本
要素をいかに満遍なく提供できる手助けができるか。
そういった事を、ボランティア組織の方と協議を重ねて、検討していく。
いかに使い捨ての一時的な支援ではなく、その人たちに寄り添い続ける
ことができるものにするか。
使い勝手、メンテナンス、費用等々の課題を一つ一つ潰しながら。
電力、政財の一極集中、避難してきた人達の生活、安全な食品の確保・・
これから、日本の、特に関東圏の生活は大きな変化を迎えると思う。
省エネ、地域コミュニティ、在宅・分散勤務。
被災地でも人の繋がりが大きな復興への原動力になっている事を昼夜
知るにつれ、戦後失われてきて、見直しが必要と言われ続けてきた
本当の意味でのワークライフバランスを実現するきっかけになるので
はと感じる。
多少窮屈でも繋がりのあるコミュニティの復活、そのための仕組みの
再検討、それを実現するためのツールとしてのIT。
大袈裟なことはできないし、言う事もできないけど、何かはできそう。
「俺達このままでいいのかな」という、今誰しもが感じているある
意味何かを「サボっている」ような罪悪感に近い感情を、自分なりに
消化するために、今自分の手の届く範囲で実行に移すとすれば「ここ」
というのが少し見えてきた。

5歳220日目と1歳と51日目 自粛するなと言うけれど

ここへ来て、震災後の各地の自粛ムードに対して、消費の縮退は景
気回復を遅らせ復興に悪影響がある、自粛はやめて普段通りの生活
をしろ、みたいな論調を見る事が多くなったけど、こう声高に言って
る人には家で待つ家族はいないのだろうか。
僕自身、年度末を迎えるし、進行していたシステム開発が無事納品
を迎えたので祝杯を挙げたい気分は山々。
でも、余震が来るたびに3月11日の恐怖と、東京直下型地震の不安
がよぎるので、とにかく早く家に帰り、乳飲み子と5歳の娘を抱え
て不安な状態が続いているかみさんを安心させてやりたいし、僕自
身安心したいという気持ちの方が先に立つ。
地震直後の帰宅困難な状況とか、家に帰った際に家族の顔を見て
ホッとした気持ちとか、まだ3週間前の記憶で生々しい。
原発の状況が改善されないので、常に心の片隅に灰色な部分が残っ
ている感じ。
そうした状況下で、気の合う友人や同僚と地震の話から離れて楽し
い時間を過ごせるかと言うと、自信が無い。
震災後なので、喪に服するのと近い感覚で自粛する、というのとは
全く違う気持ちでいる人の方が、少なくとも東日本では多いのでは、
と思う。
ただ、西日本の方は平常の日常に戻っていただき、元気で変わらな
い日本である事を確認させてほしい、と勝手ながら思う。
近々、僕の同僚の御家族で、福島第一原発で作業員のメンバーとし
て現在も作業にあたっている人が、2日ほど休暇をもらうとの事。
その人は自身の家も被災していて、家族を遠くに避難させているた
め、休暇になっても帰って休む場所が無いらしい。
現在、内幸町の東電本社と福島原発間で定期的にバスを運行してい
て、そのバスで東京に来るらしいので、同僚が迎えに行き、彼の自
宅で休んでもらうとのこと。
僕はその人に何もできないのだけど、同僚を通じてメッセージだけ
は伝えてもらおうと思っている。
もし、僕のブログを読んでくれている人の中で、現地の作業員の人
にメッセージを伝えたいという人がいれば、コメントください。
メールにするか、紙にするかは、同僚に状況聞いて決めたいと思う
けど、酷い状況で働き、家族への電話もままならない彼らを本気で
心配し、感謝している人間がいるということだけでも伝えられれば、
ほんの少しだけでも彼らの力になれるのでは、と考えてます。
ただし、同僚がそのご家族の状態を見て、むしろ負担になりそうだ
と判断した場合は遠慮なく破棄してもらうつもりです。

5歳213日目と1歳と44日目 ヨウ素騒ぎ

金町浄水場でのヨウ素検出との報を受け、うちも次女への
水道水摂取にするかどうするかについて、昨晩かみさんと
相談した。
金町の第一報当初から僕はこの騒ぎはすぐに鎮静化、という
よりヨウ素の値が落ち着くはずと考えていた。
かみさんは、やっぱり報道とか政府の発表結果から動揺し
ており、昨晩はそこらへんの危機感に差異があってかみさ
んはかなりイライラしていた。
僕もどっちかというと直情型の人間なんだけど、文系出身な
がら何の因果か理系の会社に入ってしまった故、結構「fact
is fact」的な考え方が染みついたようで、幸も不幸もかみさ
んをイラつかせるみたい(笑)
事故発生後ずっとフォローしている東大の早野教授のツイ
ッターhttp://twitter.com/hayanoが、僕の重要な情報源
なんだけど、内容はデータを基にした所見の数々なので、
素人にもとても分かりやすく納得いくもの。
このツイッターと他の情報を見て総合的に僕が理解した内容
をかいつまむと、今回の放射線漏れにより東京に降ってきた
有害物質はセシウム(Cs-137)とヨウ素131の2種類で、減衰
期(毒性がなくなるまでの期間)は、セシウムが30年、ヨウ
素が8日。
チェルノブイリ事故後の検証において、人体に疾患を及ぼ
したのは、ヨウ素による甲状腺ガンの発生率増加のみ!
ここ重要で、チェルノブイリでも(事故の鎮静化にあたっ
て直接外部被ばくした作業員を除く地域住民において)被
爆による健康被害で確認されているのがヨウ素によるもの
のみということ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110323/219112/
しかも甲状腺ガンの発生率上昇が確認されたのは、幼年期
ヨウ素を内部被ばくした場合のみで、僕のようにアラフ
ォーの人間には(広島、長崎でも)全くこうした傾向は見
られなかったということ。
つまり、現在福島原発から放出されている放射性物質の中
で注意するべきはヨウ素で、デビ(5歳)と次女(1歳)が
これらを摂取しないようにすれば、取り急ぎ騒ぎ立てること
ではない、ということ。
次に、原発事故以降の放射線の各観測ポイントにおける計
測値の推移を見るとhttp://bit.ly/f2QGYm、12日から15日
にかけて連続して発生した、水蒸気爆発や、原子炉の圧力
上昇に伴い実施したベントからの圧力解放に伴い一時的に
放射性物質が爆発的に拡散したタイミングに、測定値が一
気に上昇したものの、(その後原発からは継続して放射性
物質が漏れているにも関わらず)その後は測定値の減少が
続いている。
つまり、爆発的な事象が無い場合、放射性物質の拡散地域
とその量は限定的ということ。
これらのデータから、東京で検出されたヨウ素は、12日か
ら15日に爆発的に拡散して関東圏上空に達していたものが、
21日、22日に降った雨により荒川水系に注ぎ込み、結果23
日に金町に至ったというものと言えるんじゃないかと。
23日に検出された時点で、15日の爆発から8日経過している
ので、かなり減衰が進んでいた。
なので、24日(今日)は昨日より更に減衰が進んだため、
1歳未満児の基準値も割り込んだ。
明日はもっと下がるはず。
なので、今後福島原発で爆発的な拡散を引き起こすような
事態が発生しない限り、(継続的に放射線原発周辺で検知
されても)東京に住む僕らが取り立てて騒ぐ事態にはない、
というのが僕の見解。
報道や早野教授によると、SPEEDIと呼ばれる、アメダス
ら何やらの情報を統合し、放射線の拡散予測なんかを行う
システムのデータが公開されたとのこと
なので、今後はより具体的で分かりやすい情報として流れ
てくることになると思う。
とにもかくにも、仕事そっちのけで(笑)、情報収集と分析
し、家族を始めとする周りの人に伝えて、冷静な対応を
草の根として進めるのも、ある意味災害ボランティアって
ことにならんだろうか。
僕の言い分に説得力がなきゃ、巷にあふれる「○○らしい
よ」と煽る情報の海に埋もれるだけだけど(笑)

5歳212日目と1歳と43日目 親として

先週金曜日、仙台のお客さんと1週間ぶりに電話がつながった。
と言うより、電話をいただいた。
「ご無事でしたか!」とこちらからの投げかけに対しての彼の
第一声は「14日にもらうはずの見積書がまだ来てないんだけど」
とのことだった。
これには完全に一本取られたのと同時に、彼の余計な気遣いを
させまいとする気遣いに感動した。
見積は作成していたものの、出社の可否どころか安否確認も取
れない状況の彼に対して、見積書をメールで送る事はためらわ
れたので、東京本社側の担当者に相談して、本社側に送付して
おいたんだけど、彼は早くも出社して本来の業務に戻りつつあ
ることに、ニュースから見る状況との差異を感じ、嬉しく感じた。
仙台中心部のオフィス街はライフラインはかなり早くから復旧
していたらしい。
とは言うものの、自宅の損傷は免れたもののライフライン復活
には程遠い状態で、出社には至らなかったという事らしい。
他にもうちの社宅には東北方面出身者が何人かいたが、幸いに
も家族の無事が確認できたとのこと。
まずは何をおいても良かったと思う。
報道で見る被災地は、かつて出張の折に訪れたことのある地も
多く、いわき、東松島仙台港辺りの惨状は目を疑うものばかり。
特に、いわきには個人的にお世話になった方もいらっしゃるが、
事業所の電話は繋がらない状態が続いている。
僕自身は地震当日に護国寺にあるとある雑居ビルにて打合せを
していた。
1回目の地震発生後に打合せを中止し、ビルの外に出て、同僚と
タクシーを拾おうとしたものの既に叶わず、まずは池袋まで出
ようと歩いていたところ、2度目の地震
雑居ビル同士がぶつかりそうなほど揺れていた。
その時、頭の上からあり得ないほど大きな飛行機の音が聞こえ
てきて、見上げて見ると、なんとANAのジャンボが東京タワー
より低いのではないかという高度で、護国寺上空を飛んでいた。
これを見て「とんでもないことが起きた」と認識し、足を速めた。
池袋に歩きながら状況を把握すると、東北沖が震源と分かる。
東京でこれだけ揺れたとしたら・・・と暗然とした気持ちで家族
の無事を何とか確認し、会社と連絡し、電車が全て止まっている
ため帰社が困難であるため、帰宅する旨連絡。
それから、千葉方面の同僚はひとまず会社まで歩いて戻ることに
し、僕は何とかその日中に帰宅した。
帰宅すると、かみさんが走って出てきて抱きついてくる。
デビは大喜びでやっぱり出てきて、食事中だったらしく次女は
ベビー用の椅子の上から満面の笑顔。
やっぱり自宅に帰り着くと緊張の糸が切れるらしく、全員すぐに
寝入ってしまった。
翌土日は朝からガソリン確保と当座の食料確保に走った。
これは、今考えると反省しきり。
ただ、当日の心境を思い起こすと次に東京に地震が来たら、とか
被害の状況や自分の周りの環境に関する情報が無い状態なので、
自分と家族を守るための方策があれこれ頭によぎって不安の極致
だったので、仕方がなかったと自己弁護。
子供達はやはり通常でない空気を敏感に感じていて、デビは妙に
殊勝に家の手伝いを買って出てくれるし、次女も「パパ!」と叫
んでは振り返ると笑顔を見せる。
昼間のこうした見栄の反動か、デビはオネショをするようになった
し、次女は夜泣きをするようになった。
気を付けてフォローしなきゃ。
かみさんも意識して近所の友達を家に呼んだり呼ばれたりを繰り返
しているみたい。
原発に関しては、事故発生直後からかなり正確な情報に触れる事が
出来ていたので、比較的冷静に過ごすことができた。
同僚の御家族に福島原発の運転員の方がいて、その方経由でおおよ
その状況は聞く事ができた。
多分、その方も全ては僕の同僚に伝えていなかったと思うが、少な
くとも「今すぐ東京から逃げるべきって状況じゃない」というのが
分かったのだけでも随分有り難かった。
加えて、高校時代の友人のお兄さんが物理学系(特に原子力)の研
究員としてアメリカにいて、その人からも福島原発の構造や今取り
沙汰されている放射線の種類とその減衰距離、減衰時間等を聞けた
のもので、これもあって「とにかく現地の作業員の人頑張れ!」と心の中で応援を続けていた。
先週、タクシーに乗ると、運転手は色々なお客さんから色々な事を
聞くせいか、かなり感情的なことを言う運転手が多かったものの、
僕が触れてきた情報の性質や中身を伝えると、「そういうことを
テレビでやってほしんだよね!」と。
僕も本当にそれには同意する。
さて親として。
今回たまたま偶然にも正確(と思われる)ニュースソースに触れる
事ができたので、冷静な対応というか、自分自身の心の平静を保つ
事ができている。
僕のこうした姿勢が、かみさんを落ちつけているし、子供達にも、
ひいては社宅や周りの人達までにも伝播しているのが良く分かる。
数多ある情報の中から、今の自分や家族にとって、社会にとって
重要なものをいかに選び出し、それを分析し、冷静に対応するか。
買い出しに走った僕が言うのもなんだけど、そこに努力を惜しま
ないことが、親としての子供に対する義務や責任だと感じている。
今後の教育、恐らくそのうち購入する不動産、いつか訪れるリタ
イア後の人生等々。
世の中の風潮や人の目に流されることなく、本当に必要で自分の
価値観に沿うものを見出していく。
これこそ、震災発生直後の今、僕が親として感じている責任感で
ありプレッシャーである。

5歳181日目と1歳と12日目 渋谷、原宿でデート

先週末に久々に女性と渋谷、原宿で休日デートを楽しんでしまった。
渋谷に休日に私用で訪れたのは多分結婚以来初めてなんじゃないかな?
ハチ公口から出てスクランブル交差点を渡り、いきなりマックでお昼
ご飯。
地元のマックとは違い、オサレなマックで今日のプランなんかを密か
に頭の中で復唱しつつ。
彼女もどこに連れてかれるのか分からないのが妙に楽しいみたいで、
「今日はどこ行くのかな〜?」とか言いながらニコニコしてる。
西武の横から坂を登りながら、ディズニーショップがあったのでちょ
っとのぞいてみる。
「今度一緒に行きたいね〜」とか言いながら、あれこれ見ていたら、
とあるマグカップを年甲斐も無く気に行った様子だったので、気前
よくプレゼントした。
パルコなんかをプラプラ見ながら、坂を登っていく。
渋谷区役所を抜けたところで、目的地に到着。
NHKのスタジオパークにチケットを購入して入ってみる。
彼女はようやくどこに来たのか把握したみたいで、瞳をキラキラさ
せて喜んでいる様子。
しめしめとほくそ笑む僕。
入場すると、「ワンワンと写真を撮りたいかたはこちら」と書かれ
ていたのを目ざとく見つけ、これまた年甲斐も無く「一緒に写真撮
りた〜い」と言うので、居並ぶ家族連れの中に交じって順番を待つ。
無事にワンワンと一緒に写真に収まる事ができ、彼女も大喜び。
その後、スタジオパーク内をあれこれ見たけど、どのスタジオも撮
影していなかったので盛り上がりはイマイチ。
NHKを出て、原宿方面に手を繋ぎながらノンビリ歩いて行った。
代々木公園に入り、暖かいお茶を飲みながら近況を伝えあう。
代々木体育館では何か大きな大会があったみたいで、とてもたくさん
の人だかり。
シルクドソレイユのテントも見えて、華やかな休日を彩ってくれた。
少し寒くなったので電車に乗って移動していたところ、彼女は疲れ
がたまっていたらしく、僕に寄りかかって少し寝入ってしまった。
降りる予定の駅を過ぎてしまったけど、少し遠周りでもいいやと思
い、そのまま彼女の寝息を感じながら心地よい休日の午後の車内を
過ごした。
ようやく起きた彼女を促して途中下車。
そのまま一緒にスーパーで買い物をして彼女の家に帰った。
晩御飯を一緒に食べ、一緒にお風呂に入り、寝室へ。
デートをたっぷり楽しんだ彼女は布団に入ると同時に寝入ってしま
い、僕は仕方がないからテレビを見ながら晩酌。
翌朝、先に起きていた僕がソファーで新聞読んでいたら、彼女が起
きてきて「昨日はほんと楽しかったよ」と言って抱きついてきた。
いつまでもイチャイチャしていたから、「ほら!起きたらトイレ行
って顔洗うんでしょ!」と促すと「はーい」と言ってトイレにバタ
バタと向かう。
今日も一緒に遊びたかったんだけど、休日出勤だったから後ろ髪引
かれながら家を後にした。
次デートするときは、行きたがっているプリキュアショーにでも連
れていこうかな〜。