4歳と349日目と182日目 被爆者

今年も6日、9日を迎えた。
日本中がこのニュースに触れる毎にたとえ一瞬でも「何となく」
重い空気を感じる。
僕も小学校の頃に近所の公民館で見た記録映画を見て、非常に
衝撃を受けたものの、映像の悲惨さに衝撃を受けたのであって、
実際に起きた事への理解は中々できなかった。
というか今でもできていない。
なのに、僕は「被爆三世」である。
母方の祖父は、長崎の三菱重工の技術者だった。
戦艦武蔵の設計や建造にも携わっていたらしい。
原爆が投下された9日はたまたま出張で長崎にいなかったが、
帰ってきて被爆地の後片付けをしていて被爆したらしい。
だが、母にも詳しくは何も話さなかった。
母は原爆手帳を見たことがあるみたいだが、僕はない。
終戦後、復興した三菱重工の造船所で祖父は第一線の技術者と
して働いていた。
祖父はそれは豪快な人で、酔っぱらって社宅の屋根伝いに帰っ
てきたり、正月は100人以上の客が出たり入ったり。
母は正月の来客準備やら接待やらが非常に苦痛だったらしい。
祖母曰く、その後三菱重工の重役になった人の中に、祖父の
親友もいた。
祖父は、母が高校生の時にガンで亡くなった。
原爆との因果関係は良くわからない。
祖父の死後、母ははっきりとは言わないが、「被爆者の娘」
という周りの目があったらしい。
僕の感覚では、祖父が被爆者だったことより、母が「被爆
の娘」と見られていたという事実の方が心に迫る。
幸い、母にも、更には僕や弟、デビは次女にも、祖父が被爆
した影響は出ていない。
被爆者の娘」がいわれのない中傷だったと言えるのは、今
こうして祖父の血を継いだ家族が息災であってからこそで、
当時の母や祖母は、母子家庭になったこともあり、とても苦
労したのだろうと思う。
最近?でも僕が学生時代に友人宅へ遊びに行き、その両親と
の会話の中で祖父が被爆者だったこと告げると「まぁ・・」
と一瞬間がある事があったのを覚えている。
そう感じてしまう事は理解できる。
が、やはり言われる側に立つと、やり切れなさを感じる。
運命は変えられると良く言うが、自らの出生だけは変えよう
がない。
そこに「まぁ・・」と言われるのがいかに腹立たしく、また
ジレンマを感じることか。
と、感じつつ今年の6日、9日も意外にも深い感慨が無く過ぎ
去った。最近の母とも会話も、デビや次女のこと、お互いの
健康を気遣う事だけ。
敢えて何かしなくちゃいけないとは思わないものの、何も知
ろうとしないことへの罪悪感をチリチリと感じながら。
デビや次女にも将来伝えるべきなんだろうか。
それとも、僕が感じてきたどことない違和感を感じさせない
ために、「被爆者の血縁」を僕の代で忘れてしまうほうがい
いんだろうか。
「僕の我慢がいつか実を結び、果てない波がちゃんと止まり
ますように。君と好きな人が百年続きますように」